『えんの松原』  

 伊藤 遊 作  太田 大八 画   福音館 2001年


 舞台は平安時代。都には無念を抱いた様々な怨霊が漂っていた。 音羽丸は内裏の女ばかりが住まう温明(うんめい)殿(でん)で女童として仕えている。以前は伴仲舒(なかのぶ)の邸で暮らしていたが 雑言をはいて放り出されたのである。行き場の失った音羽丸は、仲舒の姉にあたる宮中に住む伴(ばんの)内侍(ないし)の世話になる ことになった。東宮憲平が温明殿の賢所(かしこどころ)に忍び込んだことをきっかけに彼は東宮と親しくなる。この広大な敷地を持 つ大内裏の中に「えんの松原」と呼ばれる不気味な松林があった。そこは、魑魅(すだま)や鬼が出ると噂されている所であった。 音羽はそこにひそむ東宮を呪う怨霊と対決することになる。

 音羽は、気性は荒いが真直ぐな性格である。東宮憲平は自分が生まれてきたことさえ間違いと感じているほど、生きることに消極的で ある。怨霊に取り殺されることが自分の運命と思っている憲平を音羽はどのようにして救うのか?! 怨霊の正体とはなにか?! 2人は 怨霊にどのように立ち向かっていくのかがこの作品の大きな要となる。読み手は予想がつかない展開に目が離せない。
 物語の終局で、音羽と憲平は怨霊を“退治する”という方法をとらなかった。怨霊をこの世に引き止めているのは、現世に怨霊たち の無念とその無念を感じている人が居るからである。怨霊自身も無念を取り除いてやらなければあの世に飛び立つことが出来ない哀 れな存在なのだ。音羽と憲平はその無念がどうしたら取り除けるかを考える。音羽は、咄嗟に、怨霊が宿る鳥を抱きしめ助けようと する。憲平は決死の覚悟で自分の腕の中にその鳥を迎え入れようとする。怨霊は“受け止められる”ことによって、癒され、浄化さ れて飛び立っていった。争いは又新たな恨みをつくる。“受け入れる”ことも解決策の一つであることを2人は本能的に悟ったに違 いない。

 人が生きていく限り、そこには果たしえなかった恨みが残り、怨霊が現れる。其れは反面、苦しめたことを悔やむ人が居るというこ とだ。悔やむ人が居ない世には怨霊は存在しないという。筆者は、それは“あってはならぬもの、ありえないもの”ではなく、人と 共に密接に存在するものと考えたのだろう。世の中は自分の望むようには必ずしも動かない。失意や悲哀に満ちている。怨霊は世の 中の嘆きの声である。だからこそ、人の哀しみや苦しさを受け取り、共有しようとする“優しさ”が怨霊を解き放つ鍵となったのだ。 真直ぐな心は、魔を浄化させる。音羽や憲平のように。
 そして、音羽を見守りつづけた伴内侍の存在も欠かせない。二人の関係は怨霊と対極にある。最初は利害関係で出会った二人で あるが、共に暮らすうちに互いに距離を縮め、相手の心に触れ合うようになった。その伴内侍の深い愛情が人を怨む魔の世界から音羽 を救い出す。魔を打ち破るのは対立ではない。

 自分と違う異分子はとかく退けようとするこの現代、戦うことだけがすべてじゃないことは心でわかっているはずなのだけれど、どうし ても自分を守ってしまう。でもそれではだめなのだ。対立からは何も生まれない。新たな恨みをつくるだけなのだ。相手を受け止めるこ とによって解決することもあるのだ。これは怨霊だけに限らない。    

文責 ゆうざん  2001年10月




目次へ戻る
《ぐりとぐら》MENUへ戻る
【壁紙提供】Kigen