『闇の戦い』  

 ウィリアム・メイン 作   神宮 輝夫 訳      岩波書店  1991年(新装)19980年

  2つの世界を交錯させながら物語はすすむ。彼はそのどちらの世界も選ぶことが出来る。
 1つは現実世界。15歳のドナルドがいる世界。ここでは、彼は,子どもと大人の2つ領域の狭間で揺れ動いている。今、まさに脱皮しようとするさなぎのようだ。大人からはまだ一人前と見られていない自分。心の中ではもう幼い頃に戻れなく、父親を突き放してみつめている自分。思春期に誰しもが経験する葛藤がここにある。
 もうひとつは仮想世界。ここは竜の住む異世界である。そして、一見彼が投げ出されたように見える異世界が、実は,かれの意図によって構築された世界であることが読み進めるにつれて解る。そこでは、世界の秩序は、騎士の精神によって成り立っている。時代的には何百年も逆行しているかのような中世の趣をたたえるここで、彼は一人の青年ジャクソンとして登場する。ジャクソンは揺れ動く15歳の子どもではない。(たとえ彼がまだ15歳だったとしても…)彼には、的確な判断力があり、周りの人々も彼を"向上心に燃える一青年"として迎えいれる。彼はこの世界で様々なことを学ぶ。ここでの彼は自信に満ちている。世界の決まり事は、騎士の精神に法って行われ、合理的であり明瞭である。
 ところが、現実世界はとみると、姉はなぜ死んだのか、自分がだれの子どもであるのか、なぜ、父は治療を病院に任せないのか、神の御心とは何なのか、ドナルドには計り知れないことや自分自身で解決できない問題が山のようにあり、世界は彼にとって不可解なもので溢れている。現実の方がはるかに不透明であり、複雑なのである。
  この現実世界で彼が直面しているのは、日本の作品でよく描かれる"思春期の父や母からの自立"ではない。(日本では、えてして親が子どもの気持ちを分かりえないという点に終始しがちであるが。)ここで問題になっているのは、信仰を主軸にして生きる敬虔な両親の生き方と合理的に生きたいと願うドナルドとの人生観の違いなのだ。それでいて彼は、両親の生き方を否定しているわけではない。彼の周りには、簡単には拭い去れない、脈々とつながる信仰が横たわっている。彼は父に嫌悪を抱いてはいるが、父の信念そのものは、認めているのである。
 だから苦しんでいるのだ。親の無理解に対する反抗ではない。信念の違い、価値観の違いへの戸惑いだ。彼の味わっている孤独とは"だれもわかってくれない"という類のものではない。今まで一体と感じていた肉親でさえ、個としては違うことを自覚することの苦しみ(できることならいつまでも一体化していたいというあがきも含めて)であり、そのことに気づいた後、いかに家族として寄り添っていくかを模索する孤独である。彼が家族との新しい人間関係を築いていく為の"自分との戦い"である。
 彼の倒した竜とは、大きな存在である父であり、また幼い自分自身との決別をも意味したはずだ。“騎士としての法にのっとった倒し方”以外を選んだことも、それは、彼自身が他の方法(自分自身の法則性以外のもの)言い換えれば、他の生き方も受け入れたということではないか。この戦いは彼の"青年となるべき通過儀礼"の象徴といえる。
 この作品の中で、生き方に悩む彼の前に手を差し伸べる、宣教師ベリイの存在は大きい。彼はけっして"こうすればいい"という方法論はいわない。訥々と自分の歩んできた道を語る。父との関係に悩むドナルドに"30歳ぐらいになったときには、あまり肉親ということにこだわらずに1個の人間として見られるくらいこころにゆとりができた。"(本文より引用)と、さりげなく自分の経験を語る。
 この作品の中に、"そのままでいいんだよ。"とか"自分は自分だよ。"などという生温い癒しの言葉はない。むしろ、"変れ、戦え"と駆り立てられている気がする。それは一見厳しく見えるかもしれないが、そこには彼を見つめてくれる理解者や先達がいる。その先に安定の場所があることを教えてくれる者がいる。迷った子どもの背中をそっと押してくれる暖かな大人の存在がある。未来は暗くはない。闇の先には光が在る。この迷路を抜け出しさえすれば…・・作者はそういっている気がする。
 今、巷で流布している"癒し"を到達点とする児童文学が多い中、これは、一歩すすめて、思春期の"人間としての成長に必要なものは何か"ということを再確認させてくれる本といえるのではないだろうか。そして、そういったものが今の社会に失われているのだということも痛感せざるを得ない。
 もっとも、今の子ども自身も現象面にのみとらわれ、―(不条理な"社会"というものを、自分でどう受け入れ,自分の中でどう解決するかではなく、単に辛らつな社会批判や攻撃だけにとどまってしまう現状。)―、自己の内面を凝視し、内省するほどの精神構造にいたっていないこともひとつの要因ではあるが、またそれも子どもだけに限った問題ではない。

 文責 ゆうざん  2000年6月




目次へ戻る
《ぐりとぐら》MENUへ戻る
【壁紙提供】Kigen